「本音」
本当の気持ちなんて、心を許した信頼のおける相手の耳元でだけ、小さな声で伝えられれば、それでいいのだ。
だから、本当の「本音」を気持ちだけをぼくはここに並べようとしている。
でも、他人の本音なんてホントは誰も聞きたくはないのかもしれない。つまり、日本人にとって「言葉」は、優秀な意思伝達ツールというよりも「他人への思いやり」として発達した経緯があるからだ。
「邪魔だ」は「すいません」。
「乗り気じゃない」は「行けたら行く」。
「もう疲れた」は「そろそろおひらき」。
「愚かすぎてあきれる」は「ここまでいくと逆に好きになってきた」。
こんな風に、真意をオブラートに包んで伝えるところが日本語表現のおもしろさになっている。
言ってしまえば、うそでもいい。ちょっと気の利いたプレゼント包装のように、現場の状況をキレイにラッピングして相手にレポートする。これがぼくらの言語表現だと思う。
さらに、たとえば『なんだか、うまくいかないね……』とネガティブにおちいりそうな状況であっても『やば、気まず!』とおどけて一度空気をリセットする。といった具合に、空間を軌道修正するための言葉をぼくらは無意識のうちに選んでいる。これは相当高度な言語文化だ。
だから言葉というのは精度が高ければいいってものでもない。うそも含めて描く「放物線の美しさ」がモノをいう。
これを「道徳」と呼ぶんじゃないだろうか。
と、なんでこんな話をしているかというと西洋服誌の授業で扱った2016年のニュースで『2、3年後には「道徳心」や「愛国心」を児童の成績に加算することを国が決めたっぽい』というニュースを知って、いや~な気持ちになったからだ。
これはモテない人がよくやりがちの、悪手だ。
つまり、〈俺(わたし)のことわかってよ! ちゃんともっと好きになってよ!〉というアピールである。
そんなこと言われて、うん。じゃ、好きになるね。と答える人なんかいるわけがない。100年の恋もさめる、とはこのことだ。それだけは言っちゃいけない、恋愛における基本中の基本ではないか。
「道徳」なんかこっちが勝手に身につけるもんだ。誰かに教わんなくたって、人を好きになればイヤでも悩む。
そして「愛国心」は、身近な人じゃなく、すでにいなくなった人たちが残したモノ、つまり “文化” が教えてくれます。こんなに素晴らしい文化を残してきた人類の歴史を、好きにならずにいられるワケがないじゃないか。キャント・ヘルプ・フォーリン・イン・ラブ、てやつだ。なにかを好きになるのに、他人の助けなんか一切無用なんだ。
たとえこの先、だれかがどんなに苦しんでも、必要なものはすべて文化が教えてくれる。それをぼくが教えて正してあげなければいけない。