春の雑記

気づけば4月中旬になっている。新シーズンにも慣れかけてきて、時間に余裕もできたので近頃はレコード屋さんにもたくさん行けている。お金がなくほぼみて終わるのだが。

ぼくは新譜を聴くのはもっぱらストリーミングである。

それでもレコードで買いたい作品というのは依然あって、「万が一ストリーミングの有用性に気づいてしまったが最後、フィジカルなソフトを買わなくなるんじゃないか」というぼくの心配は杞憂だった。

ここ数日でもいいレコードとはたくさん巡り会ったのだけれど、針を落とすどころかまだ開封すらしていないのが、ザ・ブルーハーツの復刻シリーズだ。

ぼくが買ったのは『HIGH KICKS』『凹(ダグ・アウト)』『夏のぬけがら』の3枚。上に書いた “それでもレコードで買いたい作品” をブルーハーツに当てはめれば、ぼくの場合はこういったセレクトになる。

これって、なんなんだろう。

吉祥寺の繁華街から少し外れたところにココナッツディスク、という名店がある。そこのTwitterアカウントが『祝・ブルーハーツの全アナログ入荷/みんなの予約分、ちゃんとあるよ!』といった文と共に載せた取り置き棚の写真 ↓ がおもしろかった。ほぼすべての予約の束に『夏のぬけがら』が入っているではないか(『夏のぬけがら』だけを予約している人も多い)。

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「レコードで買う」という選択はやはり、音楽ファンから作品に贈る、一種の “敬意表明” なのだ。

……ん? と、言うことは、だ。さっき上に挙げた3作以外のブルーハーツのアルバムにきみはそこまで思い入れがないのだね、とさげすまれてもいけないので釈明すると、やはりブルーハーツの性急できわめて実存的なパンクロック、特に初期におけるぼくらをいてもたってもいられなくさせたあの名曲群はCDで聴くのが雰囲気だと思っている。

さらに言うなら、聴くのは立派なオーディオでなく、友人の部屋にただ置いてある、できるだけ安っちいラジカセがいい。色褪せたプリクラなんかが貼ってあるような。

夏の夜に窓は開いていて、学校おわりかなにかの帰りのぼくらは、どうにもならない予感だけが悩みの種だから、大人になるのをただ待つしかなくて、それがどうにももどかしいから音楽をかけていた。

それは「音楽鑑賞」なんて大層なものじゃなく、安いラジカセでちょうどいいのだ。

まぼろしのようなバンドのこと

自分が音楽を志してまもないころに憧れた、年の差にすれば親の歳と同じくらいのミュージシャンの訃報はやはり耐えられぬものがある。

先日逝去が報じられた亀川千代さん、そしてゆらゆら帝国もそんなぼくの憧れのひとつだった。

彼らがデビューした1998年の国内音楽シーンといえばメロディック・パンク/オルタナティブ・ロックの最盛期、暗く倒錯した趣味のぼくが好むものはメインストリームには見受けられないものと探すのをあきらめていた。なんかみんな元気いっぱい、みたいなかんじだった。

当時は、まだYouTubeも存在せず、音楽シーンの情勢を広く得たいならばCS放送スペースシャワーTVViewsicなど)を観るしかなかった時代、それに加入している友人に頼んで録画してもらったMVの詰め合わせなどを、昔の人はよくザッピングしていたそう。(現在ではそんなCS放送の番組はYouTubeに載っている)

みんな元気いっぱいみたいな音楽の時代が続くなか、突然、なにかの間違いみたいに、異形のバンドがあらわれる。

ベルボトム、長髪、ファズ・ギター。

《搾って ぼくの真っ赤な血を全部 ああ》

ゆらゆら帝国の “発光体” のMVである。

メインストリームから目をそらして、60年代の地下に埋蔵された音楽にひとり夢中になっていたとき、まさにそのままの姿かたちをした彼らが画面に現れた。

こんなこと(まるでゴールデン・カップスの “銀色のグラス” のような)がこの時代に許されるのだろうか。もしも許されるなら、ぼくがやるべきこともあるんじゃなかろうか。

ぼくはこの1曲であっという間に彼らのファンになった。その後の快進撃はそのままぼくの希望と羨望になった。

彼らのライブはすごい。

なんの演出もなく、ただ定刻になったから、といった調子でメンバーがステージに現れる。

亀川千代さんがあの腰までとどく美しい髪をほどいただけで、大きな歓声があがる。

そしてはじまる曲は、『ミーのカー』(1999年)でもっともスローな “19か20” 。まるで盛り上がるなと言わんばかりの、観客を突き放すような選曲である。

その後も、両極のアルバム『しびれ』『めまい』(2003年)の同時発売など、ゆらゆら帝国の作品はつねにセンセーショナルではあったが、それに反してバンドはそれらの評価や賞賛をいっさい望んでいないようだった。

プロモーションもまったく行われず、毎回どこか知らない世界から作品だけが届けられるような感覚をファンはいだいていたのではなかろうか。

まるでどこにも存在しないような、存在。

そんなイメージにそのまま回答するかのようなアルバム『空洞です』(2007年)の発表でバンドはいよいよ未到の境地に達してしまった。

「もう坂本さんはライブでギター弾かずにマラカス振ってるだけらしいよ」なんて、まるで都市伝説のような噂を聞いても「そうだろうなあ」と思わされる、それほどに幻想的なバンドになっていた。

迎える2010年、ゆらゆら帝国が《完成してしまったから》という理由で解散を発表した。

ファンの噂では、ゆらゆら帝国はデビュー前から解散にいたるまでずっと同じスタジオを使っていて、毎週決まって同じ時間に同じ部屋が押さえられており、その使用時間は短くなることも長くなることもいっさいなかったらしい。そうだろうなあ。

this heart of mine

気づけば桜が散り始めている。東京では例年よりも遅い開花だったそうだ。

春休みが終わってしまう、と目先のことに気をとられているうち、見頃をすっかりのがしてしまった。

なんなら、そうやって目先のことに気をとられているうち、すっかり4年が経っていた。さぞかしいろんなものを見のがしてきたことだろう。

よほどお忙しかったのですね、と言われればそうでもない。もっとお忙しい人たちのおかげで世の中はなりたっている。

それなのに、ぼくはいつも心に余裕がなかった。きっと心がちいさいのだと思う。

ぼくのこのちいさいハートは、いつも混乱している。

ぼくのこのちいさいハートは、いつもあわてて、早鐘をうつ。

ぼくのこのちいさいハートは、ささいなことでいっぱいになり、あふれ、からっぽになる。

もうすこしハートに余裕さえあれば、いろんなものを立ちどまって眺め、それを楽しんだり、あるいは惜しんだりすることもできたかもしれない。

けれども、ぼくのこのちいさなハートはすぐにいっぱいになり、あふれ、からっぽになるので、ただ足早に通りすぎるしかないのだった。

咲いた花を愛でることなく、散る花を惜しむことなく。

きっとぼくは、おそろしくてたまらないのだ。立ちどまり、花が咲き、やがて散るのを見ることが。

なんてちいさなハートだろう。ずっと、ずっと、ふるえているのだった。

ぼくのあわてているのは、そのせいだ。

完成よりもはやく、終わりよりもはやく、はじまりよりもまた、はやく。

そしてこのまま立ちどまらず、すべてを通りすぎてゆけ。

完成を見ぬまま、なにも成し遂げぬまま、誰にもわたさぬこのハートが、ずっと、ずっと、ふるえているまま。

 

おしゃべりについて。

おしゃべりが好き。

おしゃべりは好きだが嫌い、この矛盾を理解できる人も少なくはないのではないか。おしゃべりすることは少なからずぼくにもある。

お相手は、男性の場合もあれば女性の場合もある。年上の場合もあれば年下の場合もあり、はじめましての場合もあればもう何度もお世話になっている旧知の方の場合もある。そこにさまざまな地域性も加わる。

せっかくこれだけ多様な相手と話せるのだから、たとえば互いの小さい頃の思い出、こんなものが好きだったとか、ここに大きなケガのあとがあるだとか、そんな話ばかりできればきっと楽しかろうに、と思う。

ああ、あるある、自分も同じようなことがあるのですよ、というやりとりはなぜか互いを気色よくさせる。《共感》というやつである。

仲のよい相手との共感も気色よいが、あまり知らぬ相手との共感はさらに気色よく、それが年もはなれていたり生まれた場所もはなれていたりすると尚のこと気色よい。

なぜ気色よいかというと、はなれているはずの距離がぐぐ、と近づいたように感じるからで、つまり人間は根本的に「近づきたがる」習性をもっている。

我々がウイルスの流行にたびたび苦しむのもその習性によるところであり、近づかぬこと、話さぬこと、と言われるとどうもぐぬぬ、となってしまって、なんというか弱点をつかれたような気持ちになる。

 

我々はことばをさがす。共感できる経験を思い出す。

好きになったもの、訪れた場所、なつかしい悩み。

ことばは経験であり、ことばをさがすことはその中から他者と共有できるものを選ぶことである。

ちょうど近頃読んだ短編小説に、小学校教諭が生徒をまったく理解できずに苦悩する話があった。

古いフランス映画にも『大人は判ってくれない』という題のものがある。

大人と子供の物別れは永遠のテーマだが、これはなにも大人が不純で子供が純、というわけではなく、単に子供が得ている経験=ことばの少なさゆえに会話が成立しないだけではないかという気もする。

思えば子供の時分には、他者との共感によろこんだ記憶がほとんどない。それは親密になる相手のほとんどが同じ時代に同じ地域に生まれ、同じコミュニティに属し、だいたい同じ時間に寝起きして同じ遊戯に没頭し、同じ内容の勉強に難儀したりしていたからであって、ことばをさがすまでもなく、なにもかもを共有していたからにちがいない。

そういった通過儀礼を経て、我々はそれぞれの人生を選び、はなれてゆく。

同じ遊戯に没頭していた季節はもう訪れず、その先で出会う人々は実に多様で、理解し合うことはいかにも難しい。

それでも、まだおしゃべりをつづけよう。記憶の果てまで、尽きることなく!

 

ぼくは、あなたのくだらないこと

かなしい思い出はうすれてゆく。たぶん脳みそが気をきかせて、忘れたふりをしてくれている。

ただ、どうもそのせいで、昨年の思い出を丸ごと忘れそうになる。セーフサーチ機能をONにしたらなにも表示されなくなった、みたいな状態。

このままいくと、なにもかもに “かすみ” がかかって、見えなくなる。

ああ、いけない。きちんとしっかり、しあわせを、この愉快な日々を、見つめておかなければ。

たとえ戦争がつづいても、つらいニュースばかりが聞こえても、また“誰か”がぼくの前からいなくなっても。

ぼくらはしあわせを、手ばなしてはならない。


《戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。》


文学者の吉田健一さんのこのことばを胸に。

きっとぼくらは、大切なことだけでこころを満たしてはいけない。

もっと、どうでもいいことを。

ひとつでも多く、くだらないことを。

そんなことだけをしっかり覚えていられるよう、つとめなくては。

今のこの世界に慣れないで。もっとよい世界をのぞんで。

今年もあなたの、くだらないことでいられますように。

うまくないことについて。

「楽器がうまくなりたくて悩んでいる」「バンドを組んでいるが、もしかしたら自分の力不足がメンバーの足を引っ張っているかもしれない」というような相談を1週間ほど前に受けた。

うーん、別にそのままでいいのになあ、と自分は自分のことを棚にあげて、思った。

なぜ棚にあげたかというと、自分もまた「うまくなりたい」と思っているからである。

しかし、「うまくない」音楽の魅力というものは、あきらかに存在する。自分はその好例をたくさん知っている。なんなら大好物である。

この世界のほとんどは「うまいもの」だけでできている。それを専門職とし、長年かけてつちかった技術やノウハウを持っている人だけが、その道のプロフェッショナルとなって活躍してくださっているからだ。

世の中のごはんはうまい。医療もうまい。運転もうまい。家を頑丈につくるのがうまい。

うまくない人がこれらの職に就くことはむずかしい。うまくないことによって困る人が続出する恐れがあるからである。

思えば子供の世の中もそうであった。計算がうまい、記憶するのがうまい、運動がうまい、絵や作文がうまい等々、うまい者だけが常にほめられ、うまくない者はもっとがんばりましょうね、と諭されていた。

この「うまくない者」に残された唯一の光、唯一の勝ち筋が芸術ではないか。

だから自分は「うまくない」音楽が大好物である。それを見聞きするとスカッとする。そうだやっちまえ、とサディスティックな気分になる。なにかの大逆転劇を見ているような高揚した気持ちになる。

来る日も来る日も技術を磨き、血のにじむような努力を積んだ者を、怠け者が高笑いで抜き去る。あっという間に置き去りにする。

本来、そんなことはあってはならない。そんなことがまかり通れば、みなが真似をし、世の中が堕落する。困る人が続出する恐れがある。

しかし、芸術においては許される。大いに許される。大歓迎である。自分はそう信じたい。

ところがそれを信じている自分でさえ、ついつい「うまくなりたい」と願ってしまう。そしていよいようまくなってしまう。人間は成長する生物である。ずっと同じでいることは、うまくなるよりむずかしい。

つまり「うまくない」という状態は一過性なので、希少価値すらあると言ってもよい。失ったが最後、二度とうまくなくはなれない。ああ、保護したい。守りたい。なでなでしたい。自分はそんな気持ちで「うまくない」芸術を愛でている。

冒頭の相談に戻る。漫画や絵画、あるいはソロアーティストであればまだよいが、バンドとなるとこの問題はさらにむずかしくなる。バンドもちっちゃい社会なので、社会性が求められてしまう。

「うまくない」ことと「社会性」は、相性が悪い。「うまくない」芸術を愛好したり制作したりできる人はなぜか社会性が欠如している場合が多い。ね。自分もそうです。

そんな自分からアドバイスできることがあるとすれば、「うまくない」という状態は「できることが限られている」という状態でもあって、その限られたできることだけを突き詰める/特化すると、ものすごく独創的なバンドになることができますよ、と申したい。

これを自分は「ホース理論」と呼んでいる。ホースの口をギュッとつまんだら水圧が強くなるでしょう。あれです。アウトプットの幅をせまくすると、ちょろちょろの水もピューッと遠くに飛ばすことができるのです。

先ほども申したとおり、世の中は「うまいもの」で埋め尽くされている。バンド界においても、その95%が結局はうまいバンドで成り立っている。

自分はその状況を大変つまらなく思う。

強い言葉を使ってしまうが、もしあなたに「もっとうまくなれ」などというやつがいるなら、そいつはアホなので信じなくてよい。そんなやつは音楽にちっとも向いていない。ほんとに向いていない。ただ周りと同じでないと不安で恥ずかしい、というタイプなので、さっさとやめたほうが身のためである。

あなたに「うまくなれ」と言ってよいのは、あなただけだ。技術は自分が表現したいことに必要なぶんだけあればよい。もし表現したいことに技術や知識が不足していると感じるなら、あなたはほっといてもうまくなろうとするだろう。

そして、「今よりうまくなった時」を待ってはいけない。おそらくそんな日はやってこない。表現者は誰もが「まだうまくない」と思っている。そんなもんである。

なので、希少価値の高い「うまくない」状態の作品や表現を、どんどこ発表するべきである。

その作品や表現は、誰かをスカッとさせたり、サディスティックな気分にさせたり、高揚した気持ちにさせるだろう。

そんなあれこれを含めて芸術はやっぱり最高であるし、自分も芸術を扱う人でよかったなあ、そうじゃない人は悪いけど指をくわえて見ててね、うらやましがっていてね、と思っている。