this heart of mine

気づけば桜が散り始めている。東京では例年よりも遅い開花だったそうだ。

春休みが終わってしまう、と目先のことに気をとられているうち、見頃をすっかりのがしてしまった。

なんなら、そうやって目先のことに気をとられているうち、すっかり4年が経っていた。さぞかしいろんなものを見のがしてきたことだろう。

よほどお忙しかったのですね、と言われればそうでもない。もっとお忙しい人たちのおかげで世の中はなりたっている。

それなのに、ぼくはいつも心に余裕がなかった。きっと心がちいさいのだと思う。

ぼくのこのちいさいハートは、いつも混乱している。

ぼくのこのちいさいハートは、いつもあわてて、早鐘をうつ。

ぼくのこのちいさいハートは、ささいなことでいっぱいになり、あふれ、からっぽになる。

もうすこしハートに余裕さえあれば、いろんなものを立ちどまって眺め、それを楽しんだり、あるいは惜しんだりすることもできたかもしれない。

けれども、ぼくのこのちいさなハートはすぐにいっぱいになり、あふれ、からっぽになるので、ただ足早に通りすぎるしかないのだった。

咲いた花を愛でることなく、散る花を惜しむことなく。

きっとぼくは、おそろしくてたまらないのだ。立ちどまり、花が咲き、やがて散るのを見ることが。

なんてちいさなハートだろう。ずっと、ずっと、ふるえているのだった。

ぼくのあわてているのは、そのせいだ。

完成よりもはやく、終わりよりもはやく、はじまりよりもまた、はやく。

そしてこのまま立ちどまらず、すべてを通りすぎてゆけ。

完成を見ぬまま、なにも成し遂げぬまま、誰にもわたさぬこのハートが、ずっと、ずっと、ふるえているまま。