うまくないことについて。

「楽器がうまくなりたくて悩んでいる」「バンドを組んでいるが、もしかしたら自分の力不足がメンバーの足を引っ張っているかもしれない」というような相談を1週間ほど前に受けた。

うーん、別にそのままでいいのになあ、と自分は自分のことを棚にあげて、思った。

なぜ棚にあげたかというと、自分もまた「うまくなりたい」と思っているからである。

しかし、「うまくない」音楽の魅力というものは、あきらかに存在する。自分はその好例をたくさん知っている。なんなら大好物である。

この世界のほとんどは「うまいもの」だけでできている。それを専門職とし、長年かけてつちかった技術やノウハウを持っている人だけが、その道のプロフェッショナルとなって活躍してくださっているからだ。

世の中のごはんはうまい。医療もうまい。運転もうまい。家を頑丈につくるのがうまい。

うまくない人がこれらの職に就くことはむずかしい。うまくないことによって困る人が続出する恐れがあるからである。

思えば子供の世の中もそうであった。計算がうまい、記憶するのがうまい、運動がうまい、絵や作文がうまい等々、うまい者だけが常にほめられ、うまくない者はもっとがんばりましょうね、と諭されていた。

この「うまくない者」に残された唯一の光、唯一の勝ち筋が芸術ではないか。

だから自分は「うまくない」音楽が大好物である。それを見聞きするとスカッとする。そうだやっちまえ、とサディスティックな気分になる。なにかの大逆転劇を見ているような高揚した気持ちになる。

来る日も来る日も技術を磨き、血のにじむような努力を積んだ者を、怠け者が高笑いで抜き去る。あっという間に置き去りにする。

本来、そんなことはあってはならない。そんなことがまかり通れば、みなが真似をし、世の中が堕落する。困る人が続出する恐れがある。

しかし、芸術においては許される。大いに許される。大歓迎である。自分はそう信じたい。

ところがそれを信じている自分でさえ、ついつい「うまくなりたい」と願ってしまう。そしていよいようまくなってしまう。人間は成長する生物である。ずっと同じでいることは、うまくなるよりむずかしい。

つまり「うまくない」という状態は一過性なので、希少価値すらあると言ってもよい。失ったが最後、二度とうまくなくはなれない。ああ、保護したい。守りたい。なでなでしたい。自分はそんな気持ちで「うまくない」芸術を愛でている。

冒頭の相談に戻る。漫画や絵画、あるいはソロアーティストであればまだよいが、バンドとなるとこの問題はさらにむずかしくなる。バンドもちっちゃい社会なので、社会性が求められてしまう。

「うまくない」ことと「社会性」は、相性が悪い。「うまくない」芸術を愛好したり制作したりできる人はなぜか社会性が欠如している場合が多い。ね。自分もそうです。

そんな自分からアドバイスできることがあるとすれば、「うまくない」という状態は「できることが限られている」という状態でもあって、その限られたできることだけを突き詰める/特化すると、ものすごく独創的なバンドになることができますよ、と申したい。

これを自分は「ホース理論」と呼んでいる。ホースの口をギュッとつまんだら水圧が強くなるでしょう。あれです。アウトプットの幅をせまくすると、ちょろちょろの水もピューッと遠くに飛ばすことができるのです。

先ほども申したとおり、世の中は「うまいもの」で埋め尽くされている。バンド界においても、その95%が結局はうまいバンドで成り立っている。

自分はその状況を大変つまらなく思う。

強い言葉を使ってしまうが、もしあなたに「もっとうまくなれ」などというやつがいるなら、そいつはアホなので信じなくてよい。そんなやつは音楽にちっとも向いていない。ほんとに向いていない。ただ周りと同じでないと不安で恥ずかしい、というタイプなので、さっさとやめたほうが身のためである。

あなたに「うまくなれ」と言ってよいのは、あなただけだ。技術は自分が表現したいことに必要なぶんだけあればよい。もし表現したいことに技術や知識が不足していると感じるなら、あなたはほっといてもうまくなろうとするだろう。

そして、「今よりうまくなった時」を待ってはいけない。おそらくそんな日はやってこない。表現者は誰もが「まだうまくない」と思っている。そんなもんである。

なので、希少価値の高い「うまくない」状態の作品や表現を、どんどこ発表するべきである。

その作品や表現は、誰かをスカッとさせたり、サディスティックな気分にさせたり、高揚した気持ちにさせるだろう。

そんなあれこれを含めて芸術はやっぱり最高であるし、自分も芸術を扱う人でよかったなあ、そうじゃない人は悪いけど指をくわえて見ててね、うらやましがっていてね、と思っている。