おしゃべりが好き。
おしゃべりは好きだが嫌い、この矛盾を理解できる人も少なくはないのではないか。ぼくはたくさん人とお話をする機会がある。
お相手は、男性の場合もあれば女性の場合もある。年上の場合もあれば年下の場合もあり、はじめましての場合もあればもう何度もお世話になっている旧知の方の場合もある。そこにさまざまな地域性も加わる。
せっかくこれだけ多様な相手と話せるのだから、たとえば互いの小さい頃の思い出、こんなものが好きだったとか、ここに大きなケガのあとがあるだとか、そんな話ばかりできればきっと楽しかろうに、と思う。
ああ、あるある、自分も同じようなことがあるのですよ、というやりとりはなぜか互いを気色よくさせる。《共感》というやつである。
仲のよい相手との共感も気色よいが、あまり知らぬ相手との共感はさらに気色よく、それが年もはなれていたり生まれた場所もはなれていたりすると尚のこと気色よい。
なぜ気色よいかというと、はなれているはずの距離がぐぐ、と近づいたように感じるからで、つまり人間は根本的に「近づきたがる」習性をもっている。恋愛初心者、かつ童貞の私には分からないが恋愛も同じなのだと思う。
我々がウイルスの流行にたびたび苦しむのもその習性によるところであり、近づかぬこと、話さぬこと、と言われるとどうもぐぬぬ、となってしまって、なんというか弱点をつかれたような気持ちになる。
我々はことばをさがす。共感できる経験を思い出す。
好きになったもの、訪れた場所、なつかしい悩み。
ことばは経験であり、ことばをさがすことはその中から他者と共有できるものを選ぶことである。
ちょうど近頃読んだ短編小説に、小学校教諭が生徒をまったく理解できずに苦悩する話があった。
古いフランス映画にも『大人は判ってくれない』という題のものがある。
大人と子供の物別れは永遠のテーマだが、これはなにも大人が不純で子供が純、というわけではなく、単に子供が得ている経験=ことばの少なさゆえに会話が成立しないだけではないかという気もする。
思えば子供の時分には、他者との共感によろこんだ記憶がほとんどない。それは親密になる相手のほとんどが同じ時代に同じ地域に生まれ、同じコミュニティに属し、だいたい同じ時間に寝起きして同じ遊戯に没頭し、同じ内容の勉強に難儀したりしていたからであって、ことばをさがすまでもなく、なにもかもを共有していたからにちがいない。
そういった通過儀礼を経て、我々はそれぞれの人生を選び、はなれてゆく。
同じ遊戯に没頭していた季節はもう訪れず、その先で出会う人々は実に多様で、理解し合うことはいかにも難しい。
それでも、まだおしゃべりをつづけよう。記憶の果てまで、尽きることなく!